小さな非日常





切っ掛けは本当に些細なこと。
今思い返してもどうしてあんなことが弾みになったのか…
しかし確実に、僕たちは喧嘩をしたのだ。


自分でもそろそろ潮時なんじゃあないかと思う。
いつまでも怒っているのも見っとも無いし、よくよく考えてみればただの八当たりだった。
リビングのソファに座って僕は熱いコーヒーを飲む。
いつも二人分淹れるのが当たり前になっていたから作りすぎてしまってカップが二つ並んでいる。
ひとつを手に、もう一つを眺めながら先日のことを思い返してみる。


僕だって仕事が行き詰まってイライラすること位ある。
それに加えて調査などで何日も家を空けていた承太郎とはもう十日以上も会えていない、
となれば機嫌が悪くなるのも仕方のないことだ!……と思いたい。
そんな時に承太郎が帰って来ると電話で連絡があって、嬉しくて僕は疲れもそのままに深夜過ぎまで起きて待っていた。
そして帰宅した承太郎を出迎えてみれば、開口一番彼はこう言い放ってくれたのだ。
『眠っていれば良いものを…』と!溜息交じりに!!

この暴言を許せると思うかい!?いいや、無理だね!少なくともあの時の余裕のない僕には無理だった。
あの今にも『やれやれ』と言わんばかりの顔!今思い出しても腹が立つ。
だから僕は言ってやったんだよ。プッツンした勢いでね。


『何?…僕が起きてたら不味いことでもあるってのかい!?』
『典明?お前、何言って…』
『せっかく締切目前で忙しい徹夜続きの僕が調査で出掛けてた君をお出迎えしてやったのに、その台詞は一体何なんだって聞いてるんだよ!』
『…誰が起きていてくれって頼んだ。』
『君ってヤツは…!!人の気も知らないでよくそんなことが言えたものだね。最低だ!』
『そうかよ。……お前こそ俺の気なんて知ったことじゃあねぇくせに。』
『なんだって!?』
『なんでもねぇよ!…俺はもう寝る。』
『あぁ、そうかい!』


大人気ない口論だとは思うけれど、許せなかった。どうしても。
承太郎はそのままシャワーを浴びるとわざわざ客間の方で寝てしまったし、僕は僕で苛つきながらも仕事を続けた。
寝室で寝たら良いのに客間に行くなんて…!本当に承太郎も頭に来ていたんだろう。
だけれどそれが余計に僕の癇に障って怒りはいや増した。
そしてあれから僕たちは一切口を利いていない。僕の方からなんて死んでも謝ってやるものかと思った。
僕の気持ちを踏みにじったのだからそれなりの報復を、と考えてもいた。

しかしあの喧嘩から五日が経とうとしている今、僕は深い後悔と反省に苛まれている。
二日前に仕事を何とか終えることが出来、心に余裕が生まれたことも大きな原因だとは思うけれど、
やはり愛している承太郎とこうも話さないで居るのは辛い。
仕事で遠くへ行っていて忙しいのなら仕方ないと思えても、
傍に居て触れ合えるというのに触れるどころか話すことも目を合わせることさえも出来ないのは…


僕が悪いのだろうか?
……確かに、いつもの僕なら『寝ていれば〜』と言われたとしても軽く流すことが出来ただろう。
『君に会いたかったから』とでもふざけ半分に言い返せたかもしれない。
…まぁ、素直にそう言うかは分からないけれど。

何にせよタイミングも悪かったのだ。
彼の言葉が少ないのはいつものことだし、僕が憎まれ口をたたいたのは事実だしね。



今日は二人ともオフで仲直りには丁度良い日なのだけれど、仲直りしたい相手はここに居ない。
何故って僕が知る由もない。朝起きたらもう居なかったんだからね!
…まだ怒っているのだろうか。

こんな事は今までに一度もなかった。
小さな喧嘩は何度かしたことがあるけれどここまで長引いたのはこれが初めてだ。
謝りたいのに承太郎はどこかへ出掛けてしまった。彼は何を考えているのだろう…?
今まで彼の考えることを理解できているような気がしていた。しかし今は何も分からない。
動揺して不安になって、僕は一人ぼっちになってしまった気分だ。
このまま一人で居ると暗い感情に呑みこまれてしまいそうだ…

(どうしよう、ホリィさんの所にでも行こうか?)

そんなことを考えていたらいきなり音を立ててリビングのドアが開いた。
僕は驚いて振り返った。
すると手に黒赤色の薔薇の一抱えもある大きな花束を持った承太郎が気まずそうに顔をしかめて僕の方へと近寄って来た。

「お…おかえ、り。」

僕は驚きの余りソファから立ち上がり、つっかえながら言った。
承太郎の方も花束を僕に押し付けると気恥ずかしそうに言った。

「ただいま。その、なんだ。…この間はすまなかったッ!」
「う…ぇ?」

僕の方から謝る気で居たのに先に謝られてしまった。
…ちょっと待て。彼が謝る…?
こ、これって物凄いことじゃあないか!?
思わず変な声が出てしまって赤くなる。
承太郎の顔をうかがってみれば、彼の方も慣れない事に照れているのか頬をうっすら染めていた。

「僕の方こそ!!ごめん。仕事が上手くいかなくて苛ついてて…ってこれは言い訳にしかならないな…。本当にごめんなさい。」
「お前が悪いんじゃあねぇ。俺も言い方が悪かった。
  電話口で聞いた声がえらく疲れているようだったからな、遅くなるから寝ていて良いと言ったんだが…
  お前ときたら今にも倒れそうに疲れきった顔で出迎えてくれただろ。」
「えッ!ご、ごめん、浮かれていて電話の最後の方聞いてなかった…」
「だろうな。」

承太郎は今度こそ『やれやれ』と溜息を吐いた。僕は頭を抱えて蹲りたくなった。
気遣ってくれていたのに僕は承太郎が帰ってくることで頭が一杯になってしまっていて彼の言葉を聞いていなかったなんて…これは僕が悪い。
その上あんな言葉を吐かれたら誰だって怒る。僕だって怒るだろう。

「どうしよう…本当にごめん!!僕だけ勝手に怒って拗ねていたなんて…!恥かしい…もう消えたい…」
「おい。」
「え、何…って!!?」

グイッと抱き寄せられてキスをされた。
手に持っていた花束がバサリと音を立ててフローリングに落ちた。
まるで映画のワンシーンのようだ…そう考えることのできる自分と、
今起きていることに対処できずパニックに陥っている自分の両方を感じて変な気分になった。
久しぶりの、実に十五日ぶりのキスの心地良さを感じられたのは唇が離れた後になってのことだった。

「承太郎…?」
「もうそのことは良い。それよかまたいつ暇になるか分からん。
  今までの分までお前を補給させてもらう、良いな?」
「じょ、承太郎ッ!!」
「何か不満が?」
「ない…です。」
「これ持ってろ。」

赤くなって俯いた僕に差し出されたのは先程床に落としてしまったバラの花束だった。
どうして、問うように視線を送れば承太郎は誇らしげに言った。

「薔薇風呂にする。やってみてぇと言っていただろ?」
「う、うん。でも勿体無い…」
「枯れちまうくらいならお前がその香りを染み込ませて持っていれば良い。」

そう言い放った承太郎は、この世に在って良いのか分からないほどに恰好良い不敵な笑みで、僕はまた惚れ直してしまった。



僕はそのまま、いわゆるお姫様抱で脱衣室まで運ばれて、お湯が溜まるまで服を脱がされているのか、焦らされているのか分からない愛撫に涙目になった。
二人で浴槽に浸かるためお湯は少なめに張らなければならないのに、待っている間に承太郎のスイッチが入ってしまってお湯が溢れそうになる。
僕は余裕のない承太郎の様子が可笑しくて嬉しくて泣きながら笑った。

湯気に煙る浴室の中で身体を洗う暇も与えて貰えず抱かれ、果てた。
久々の繋がりに痺れて一人では動けなくなり、恍惚とした意識の中で彼に身体を洗って貰う。
まだ熱を持っている身体は承太郎に触れられる傍から快感を伝え、
泡立ったスポンジはいつの間にか大きな手の愛撫へと変わり、
僕は翻弄されるがままにもう一度達してしまった。

身体を綺麗に流してもらってようやく浴槽に浸かる。
承太郎は忘れずに薔薇を持って来て、無造作に花弁をむしり取ると僕へ降り掛けた。
ベルベットのような光沢のある花びらは美しく触り心地も良い。室内に薔薇の芳香が満ちてむせ返るようだった。

承太郎に包まれるような形で彼の胸に背を預けていた僕は、夢のような気分になりただうっとりとその幸福に身を任せていた。

「承太郎、ごめん。心配してくれてありがとう。」
「あぁ。永遠に愛している。」


そう言われて嬉しくて、安堵して、その辺りから記憶がない。
起きたらベッドに居たから承太郎が運んでくれたのに違いないけれど恥かしかった。
それこそ顔から火が出るほどに、穴があったら入りたいほどに。

そして僕たちからは薔薇の香りがした。
これは承太郎がくれた幸せの香り。
似たような香りの香水を買ってしまいそうだ。



全くもって珍しいことだった。
喧嘩をすることも、こんなにも長引くことも、大きな花束を貰ったことも、
承太郎が恥じらった(!)ことも、もちろん薔薇風呂も。
小さな事が一つひとつ重なって今回のような大事になってしまった。
非日常的な事が日常だった数年前よりも、ずっと普通で平凡なことなのに僕にとっては大問題で、大事件だった。
もう少しお互いにゆっくり出来る時間を確保しなくてはならないみたいだね。
今回のことでよく分かったけれど、無理はいけない。
何より大切な相手と仲違いしては心の方が参ってしまうのだから。



後で調べたことなのだけれど、黒赤色の薔薇の花言葉は『永遠の愛』なんだとか。
承太郎って僕が思っていた以上にロマンチストなんだね。