イルーゾォはいつものように鏡の中に独り籠っていた。 冷たい床に直に座ってその白い手首によくとがれたカミソリを当てると、躊躇いなくスッとそれを引いた。 プツリプツリと赤い水滴が出来る。その手首には蚯蚓腫れのような痕がいくつもいくつもあった。 これでは足りないともう一度力を込めなおして、まるでヴァイオリンを弾くように手首の上を滑らせた。 ツツーーッと流れ出た暗赤色は、雪花石膏の肌の上を指先の方へ伝っていき、爪を染めるとついには床に落ちた。 それをぼんやりとした表情で眺めながらイルーゾォは溜息を吐いた。 痛みはあまり感じていなかった。皮を数枚切ったぐらいでは何ということもない。 仕事柄、銃やナイフで傷つけられることもある。その時の痛みはこの程度では済まない。 イルーゾォは、こんなことでしか自分の心を慰めることが出来ない己を嗤った。 暗殺チームに身を置いて少なくない数の人間を殺めておきながら、自分一人さえ殺すことが出来ずにいる現状をも。 本当に死ぬつもりなら簡単に死ぬことが出来る。そのきっかけはそこら中にあるのだ。 銃だって毒薬だって。任務に失敗するという手もある。 もしくは街にいるヤク中のギャングに喧嘩の一つも売ればあの世に旅立てるだろう。 だがイルーゾォにはそれをする気は無かった。いや、出来なかったと言うべきだろうか。 自分を傷付けることで何が変わるでも何が良いということもないが、これをせずには生きて居られないのだ。 イルーゾォは今すぐに死にたいのではない。 自分を痛めつけてマゾヒスティックに悦んでいるわけでもない。 確かに【死んでしまいたい】と思う日もあれば、世界から隔絶して鏡の中に数日籠る時もある。 その場合は大抵が数日何も口にせず、また何も言葉を発さないため、鏡から出ると必ず喋ることが出来ない。 そしてその場に倒れ込んだまま起き上がることも出来ない。発見されるまで一日以上が経つこともザラだった。 今回は不意にただ意味もなく全てが嫌になり、胸のうちにもやもやとした重苦しい煙のようなものが溜まっていき、 イルーゾォは自分でも気付かぬうちに涙を流していた。 その表情は苦に歪むではなく、茫然としてただ溢れる涙を流し続けた。 そしていつの間にか眠ってしまっていたイルーゾォが目を覚ました時、自らの血を見なくては居られなかった。 脳内がどうしようもない虚無感と血を見ることに支配されて、考える間もなくカミソリを手に取っていた。 そして鈍った頭で考えをまとめるより早くカミソリを引いていたのだ。 流れる血を見てようやく深く息を吐くことが出来た。何が良いのか自分の血を見ると安堵するのだった。 それも自分のものでなければ意味が無い。痛みが良いのでもない。その赤を見ることが良いらしい。 本来ならば医者に掛かるべきだとは思うが、イルーゾォにとってはそこへ行くことこそ苦痛で仕方ないのだ。 行かなくても生き続けているのだから行く必要は無い、と彼自身は考えていた。 しかしその傷を見て悲しみ嘆く人間が居る。 それはチームメンバーのホルマジオだ。 面倒見の良い彼はイルーゾォの教育係だったこともあり常に気を掛けていた。 イルーゾォとしても彼に心配を掛けることは本意ではないが、止めることが出来ないのだ。 自分を大切に感じてくれていることに気付いていて、その想いを裏切るようで申し訳なく思った。 しかしそれがまたイルーゾォ自身を責め、苦しめていることに気付かないのだった。 いつもよりも深く切った手首の血も既に止まり、其処彼処に着いた血液は黒く変色して渇いていた。 しかし辺りは血の匂いで満ちていて吐き気がした。 頭の中が脳から冷えるような気がしてイルーゾォは握ったままだったカミソリを部屋の向こう側へ放った。 そしてそのまま崩れるように横になると目を閉じて疲れ切った心と体から力を抜いた。 (この姿を見たらまたホルマジオが怒るだろうな……呆れるかもな……) 最後にそう考えたあとは意識が薄れていった。 どのくらいの時間が過ぎたのかイルーゾォには分からなかったが、目を覚ますと鏡を外から叩く音がした。 一体誰が?と目を遣るとホルマジオが心配そうに覗き込んでいた。 イルーゾォとしては出来るなら誰にも会いたくない気分だったが、他でもない「彼」だったので【許可】した。 彼は鏡の中に入って来るなり顔をしかめて「しょおがねぇな〜」とお決りの言葉を吐いた。 「また、か?」 「…ゴメン」 「俺に謝ってどうすんだよ……良いから見せてみろ。」 「……ゴメン」 ホルマジオはぐったりしたイルーゾォの腕を取ると傷を見る。 いつになく深い傷跡に眉根を寄せ、見た目よりずっと軽いイルーゾォの身体を抱き上げると鏡から出た。 そして寝室まで運ぶと、ベッドにイルーゾォの身体を横たえた。 傷の手当てをするためにホルマジオは一旦寝室を出た。 その彼の背中に「ゴメン」と小さな声が聞こえた。 イルーゾォは独り暮らしをしているが、そのアパルタメントはあまり居住者がおらず、寂しい裏道の奥にある。 その上セキュリティという文字などどこにも見当たらないような処だった。 そもそもイルーゾォは自宅に帰って来てもカギを掛けない。 だからこそホルマジオは自由に入って来れるのだ。 もう何度もここへ来ている彼にとっては勝手知ったる他人の家で迷わず救急セットを取りに行く。 それを手に戻ってみると、イルーゾォは気を失ってしまっていた。 起こさないようにそっと傷ついた手首から血液を拭い去ると消毒をして化膿止めを塗ると包帯を巻いた。 真白いそれは痛々しさを煽り、彼は自分の不甲斐無さを悔しく思いながらその手首に口付けた。 「どうしてお前はすぐに自分を傷付けちまうんだ……俺に頼ってくれても良いだろ? お前は悪くない。殺らなきゃ殺られる。…ここにしか居場所は無いんだ、いい加減割り切れよ……」 聞こえていないと分かっていながらホルマジオはそう呟いた。 彼はイルーゾォのことを誰より大切に思っていたが、その内訳は独占欲と恋情に満ちていた。 それを当人に知られたくないが故にホルマジオはイルーゾォと無意識のうちに僅かな距離を取ってしまっていた。 一方イルーゾォは彼の感情を知るはずもなかったが、ホルマジオのことは唯一心を許せる相手だと感じていた。 そしてホルマジオだけが特別なのだということをイルーゾォは自覚していなかった。 その二人の想いと態度のすれ違いが二人の関係を不安定にしていた。 初めに【面倒見のいい先輩】というスタンスを取ってしまったホルマジオは今の状況が苦しかった。 好きだと伝えてしまって今の心を許してくれている関係を崩したくなかった。 イルーゾォの方は彼の想いを察することなど出来ないほど、今を過ごすことで精一杯だった。 顔色悪く辛そうに眠っているイルーゾォの頬に手を滑らせて、このままで良いのかとホルマジオは思い悩んだ。 ここまで苦しんでいるのなら殺してやる方が良いのではないかと彼は考えて、首に両手を這わせた。 このまま締め上げればこの世から解き放ってやれると思い力を込めようとして、彼はふと我に返った。 自分のしようとしていたことに恐れを感じてサッとその手を引いた。 (一体…何を…… 俺は一体何を……!) 嫌な汗が出てきて、ホルマジオは救急セットを持つと逃げるように寝室を後にした。 表に出て煙草を一本だけ吸うとまたイルーゾォのもとへ戻り、眠っている彼の額に口付けた。 「ごめんな……何もしてやれなくて。」 少しの間寝顔を眺めていたホルマジオだったが「ゆっくり眠れ」と言い残して帰っていった。 玄関のドアがバタンとしまり階段を降りる足音が聞こえなくなると、イルーゾォはそっと目を開けた。 「 殺 し て く れ て も 良 か っ た の に ……」 手首に巻かれた包帯に虚ろな目を遣ってから、彼はまた眠りについた。 |